志村けんの生い立ちとは【新型コロナ】
2020年3月29日に新型コロナウイルス(COVID-19)によって亡くなったと訃報がありました。ここまで長く人気があり、誰からも好かれるコメディアンも珍しく、国民の誰しもがショックを隠せない様子です。
これほどまでに愛された志村けんさん。
一体、どんな風に育って、芸能界を生き抜いてきたのか?
今回は、志村けんの生い立ちや芸能界に入るきっかけ、また人気の秘密やその生き方について調べてみました。
オーデション.comスタッフ一同突然の悲報に接し、心からお悔やみ申し上げます。
志村けんさんの生い立ち
1950年、東京都東村山市に小学校教諭だった父・志村憲司さんの三男として生まれました。
お父さんは柔道五段でかなり厳格な方。家庭には和気あいあいとした空気がなかったといいます。
では、なぜか志村さんがコメディアンの世界を目指したでしょうか。
上記にも記載した通り、お父さんが厳しい人だったので家庭の中はいつも真面目で重たい空気が流れ、TVのお笑い番組を見る時しか、家族でみんなで笑った記憶がないころから、中学の時にお笑いの世界に入ろうと決めたようです。
重たく厳しい空気の中で、お笑い家族みんなを笑顔にすることは、志村さんにとって、かけがえのない何ものにも代えがたい時間だったに違いありません。
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志村けんさんは中学の時にはすでに、お笑いの世界に入りたいと考えていたので、1968年2月にいかりや長介さんの家に押しかけて弟子入りさせてもらいます。
志村けんさんもそうやって下積み時代があったんですね。
それから1974年荒井注さんが脱退してから4月に正式にドリフターズのメンバーとなりました。
1968年から1974年。
苦節5〜6年間でやっと表舞台に立てるようになったということです。
志村さんは腐らずに5〜6年努力した努力の天才と言えます。
しかし、デビューしたものの、約2年間は志村さんのギャグは一切受けずドリフターズの壁際だったそうです。
天下の志村けんならデビューから人気があったのでは?と思ってしまいますよね。
『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことにより一躍人気者となる。きっかけは1976年3月6日の新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、新潟にちなんだ歌として「佐渡おけさ」を全員で歌い、その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向であった。そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになりデビューへと繋がる。
結局は自分の慣れ親しんだもで自分は当たり前だけど、他人には珍しいもの。そういうものがブレイクのきっかけになるのかもしれませんね。
人気の秘訣は?
TVでの人気もさることながら、芸能人の間でも愛されていた志村けんさん。
なぜ大注目があるの?と思うので調査してみました。
まず志村けんさんは、常に寡黙でみんなでいる時はにこやかに微笑んでいるだけだそうです。これは後輩や若手から好かれる秘訣です。しかも、付き合った女性には、多額のお金を出し、別れる時にも数千万のお金を渡すそうです。
志村けんさんの暴露本が女性側から出ないのは、このような所があるのでしょうか。
さらに、後輩芸人にそれに対しも、面倒見がよく、よく飲みに連れて行ったり芸風のアドバイスをしてるいるそうです。
お金に関して、ケチじゃないところ、情が厚く兄貴肌気質は志村さんの人気の一つ言えるかもしれません。
加えて、芸に対して凄くこだわっていた志村さん。
どのような生き方をしていたのか?名言などを通じてせまっていきたいと考えます。
彼が残したかったものは?
ドリフの時に比べて、最近では余裕を持った、子供心を忘れない大人でした。 志村さんは映画やTVドラマ様々なオファーもありましたが、お笑い芸人ということにこだわりを持って、断ってきました。
芸人というプライドを持っていたのですね。